あんたはいつも 俺ばっかりおかしくて
くわれる
024:君の純粋さ、それは何よりも
前評判の良さが嫌いだった。新しい面子への挨拶はたいてい一時に済ませるものなのだが卜部だけ呼ばれた。後で来てくれ。部屋は判るか? 案内板があればな。へらっと言い捨てる卜部に周囲の方がいきり立つ。標的にされた藤堂は目を瞬かせたがすぐに笑った。いい育ちだ。嫌味がない皮肉だった。藤堂の玲瓏とした声がつらつらと道順を教える。今ここで聞くべきなのか、それ。私の私室くらいは共通情報だな。視線が解ける。それが終わりだ。卜部は気負いもなく背を向ける。藤堂も叱らない。位置が高い奴って軽んじられるの嫌いなはずなんだけどなぁ。特に作戦で拘束もされなかったから卜部は食堂へ出向いた。結構いい飯食ってんなァ。椅子へ座ってだらける卜部の周りをさざなみが包む。卜部の体躯は痩せぎすで背丈ばかりがある。顔立ちも十人並みだし特別愛嬌もない。多少戦績は派手かもしれない。卜部は人を殺すのを躊躇しない。作戦通りに動く。その余剰的な活動の結果が派手な戦績だ。分岐すれば多数決に任せるが、役割も役得も逃してやる気はない。卜部は煙草を取り出そうとして藤堂のことを思い出した。後で来るようにってまさか閨の相手しろとか言わねぇだろうな。経験がないわけではないが卜部を好む連中の思考は全く判らない。何が好きかは人それぞれだしな。
言われた手順を思い出して通路を曲がる。不意に上ったり下りたりを繰り返してこの組織が地下的な意味合いを強くしつつあるのを感じる。物資や支援の出所はすでに訊くだけ無駄だ。藤堂なら判らないはずはないと思うが見限らない。義理があるか束縛があるか。どちらとも縁遠い身としては考えるだけ無駄だった。卜部は所属を明確にしない。地位も求めない。誇りで飯は食えねぇからな。必要だと判じればなんでもする。卜部の足が止まった。さすがに名札は下がっていない。扉を叩いてから来訪ブザがあるのに気づいた。鳴らそうとする前に微音がした。耳朶の奥にかすかに引っかかる音だがそれはたしかに解錠音だ。把手を掴んで動かすと扉が開いた。部屋と言っても寝床を備えただけの個室だ。傍らへ無造作に置かれている刀が気になった。黒鞘の艶はなまめいて紺紫の組紐も鮮やか。臙脂の紐で引き絞られている握りに鍔は木瓜か。由来も経歴も判らないがその中身はたぶん竹光などではないのだ。血を吸ったことがある刀だな。卜部の獲物にもつやがある。人の脂や血は刃先をこぼれさせるほど強いものだ。手入れを怠れば切れなくなるどころか刀身が折れる。あの刃渡りを存続させるって結構な執着。
「抜いても構わないぞ」
気づいた藤堂が優美に刀を取って差し出す。片手には書類を持っている。黙って押し返すのを残念そうに引っ込めた。
座ってくれていい。寝台が嫌なら椅子を貸そう。いいすよ、別に。卜部は藤堂を無視して寝台に座った。応接を備えるほど広い部屋ではなく、藤堂もそこまで厚かましくないようだ。脚を投げ出す卜部に藤堂が書類ばさみごと書類を渡す。受け取ってからそれが卜部の経歴書だと気づく。申請した事柄だけではなく卜部の戦績まで記してある。傾きかけは慎重だな。胡乱に眺める卜部を藤堂が見つめる。間違っている箇所があるなら教えてほしい。別にねぇけど。有無に関係なく卜部の返事は決まっている。傍らへ放り出す書類を藤堂は取り返そうともしない。その灰蒼が見据えているのは卜部で、そこにはあげつらわれたことなど気にしない。情報の真偽というよりは卜部の性質を読むつもりだ。唾棄したくなる。卜部は人を試すのが嫌いだ。視線ががちんと噛み合って燐を放つ。
「あんたの経歴も見たいくらいだぜ」
戦闘力の高さは随一で、藤堂の強みは武器というくくりを捨てたところだ。藤堂の強さは白兵戦か狙撃か戦闘機かさえ選ばない。その一方で弊害もある。藤堂の求める精度が高過ぎる。藤堂の高過ぎる戦闘力はそれゆえに孤立を呼んでいる。
藤堂が黙って放られた書類を回収すると綴られている条項をいちいちたどる。君はなかなか適応能力が高いな。人型の戦闘機の経験は? 俺の位置であてがわれるわけねぇだろ。訓練を組む。体調不良などの場合をのぞいて出席してもらおう。人型の戦闘機は乗り手を選ぶぞ。重力や遠心力がかかるから…その辺りはおいおい君自身に学習してもらうしかないのだが。卜部が唖然とした。人型の戦闘機はその基盤を敵国に依存している。下がりものしかないし、それさえ希少だ。あんた、俺の階級なんだか知ってんの? 藤堂は挑むように口の端を吊り上げた。怖いかね。そりゃあ歩兵のほうが楽ですからね。矛先がずれる。卜部はあえて直さない。藤堂も指摘しなかった。
その認識があれば君に人型を宛がうかいもあるというものだ。撤回する気はないようだった。君の性格を訊こうか。自認で構わない。雑誌でも眺めるように書類はペラペラとめくられる。読んでいるかも怪しいものだ。俺の性格? 縁や頼りはないか。主義主張でもいい。近接戦闘を好むとかバックアップのほうが得意だとか。そォですねぇ、表立つより裏でやらかすほうが好きですがね。倦んだ卜部が投げる返答に藤堂はいちいち頷いた。
「君には私の直轄位置へ来てもらう。階級も伴うから責任が生まれるのを覚悟してくれ」
反応が遅れた。は? 君は戦闘の助けになると思う。その自信の出処が全く判らない。
「それで、訊いてもいいかな」
藤堂の指先が書類をつつく。君の名前はなんと読むんだ。
「…卜部です」
「占部?」
「そっちじゃなくて、カタカナの、ト」
「…あぁ、卜部兼好の方か」
「例えが込み入ってんなぁあんた…」
灰蒼が書類を撫でる。その、下の名前は? 無視した。卜部は自分の名前に対していい印象がない。字面も読みも面倒なだけだ。しれっと沈黙しているのを藤堂が小首を傾げた。
「すまない、ユキしか読めないのだが。ユキ、ちゃん?」
「きもち、わるい!」
軍属人間で名前にちゃんづけする奴がいるとは思わなかった。鳥肌を立てる卜部に藤堂はむっと口元を引き結ぶ。椅子に座っている藤堂の脚をガンガン蹴りつけた。
「なんと読むのか教えてくれ」
「…………巧雪です。コウセツ」
音韻も綴りも日本文化を顧みない。偽名であるといったほうが説得力や自然さがあると思う。藤堂は屈託なく笑む。精悍である藤堂のそんな笑みはひどく稀有で。
「よろしく、卜部巧雪」
退路も迂路もなかった。
「卜部」
「うらべ」
「こうせつ」
「コウセツ」
「巧雪」
玲瓏とした響きがしみる。その音に卜部は耳をふさぎたかった。もいでしまえればよかった。穴を埋めてしまえばよかった。鈴振るように心地よい藤堂の声は卜部の中を晒す。その声が言葉が。卜部の底辺さえも照らしてしまう。
よばない、で
藤堂は純粋で、その混じりけのなさで卜部はいつも切りつけられているような気がした。正確が正解ではないように、だが藤堂はその辺りの立ち回りをうまくこなす。周囲も藤堂に優しい。事柄もうまく運ばれていく。卜部は時折その流れに乗ったり外れたりを繰り返す。四六時中藤堂に張り付くつもりはなかった。気づかれした。無理をいうわけでもないしきちんと順序立てて意見する。迎合を嫌う潔癖でもないし立てるべきものがなにかも知っている。しわ寄せを部下に押し付けるでもない。たぶん理想的。優しくて厳しくて強くて。吐き気がする。
人気のない場所で卜部は体を投げ出した。肘をついて俯き加減の肩へ頤を乗せてくるのは藤堂だ。藤堂は甘く匂う。磨かれるようにたぶん藤堂は使い込まれていて、その経験で艶めいた。指が卜部の上着の釦で遊ぶ。千切り飛ばすような真似はしない。焦らすように外してから卜部の体を刷くように撫でた。着物のように襟を抜かれる。軍服の襟は硬いから容易に崩れない。引っ張ればそのまま後ろへずるりと抜けてうなじや背骨が見えた。藤堂はいつも襟を深く抜いた位置へ唇を寄せた。用心深いというよりそこが好きなのだ。食まれる。丈は卜部のほうがある。攻撃の破壊力は重量差以上のものがあるし巧みさもかなわない。その場を逃げたとして必ず捕まる。その場合に気遣いや倫理は一切ない。
滴らせる音をさせて柔い感触が耳裏を撫でる。身震いするのを止める間もない。腰骨の尖りを抑えられたうえにのしかかられて後ずさることも出来ない。耳朶を食まれる。こうせつ。玲瓏とした声はひどく熱っぽい。体の内側から燃える何かがあってそれは卜部に制御できない。藤堂の指先から糸でつながっているように藤堂は卜部を翻弄する。思わぬ浅瀬まで引き上げて虚を露呈させては信じられない深部へ落とし込む。吐息が熱い。渇いた喉が引き攣れて犬のように舌を出して喘いだ。四肢から力が抜けていく。壁にすがるのを藤堂は助けもせずに面白がる。心中で何度も悪しざまに罵る。くそったれ野郎。藤堂の指が不意に卜部の唇を割った。閉塞に震えて噛むのにもひるまずに藤堂は指を口へ押し入れてくる。なんとなく悪口を言われている気がした。ちくしょう。巧雪、言葉にしなくても判るものがあるぞ。思い切り歯を立ててやった。血の味が口の中へあふれる。惨めになっただけだった。赤い線と雫を垂らして藤堂の指が引き抜かれる。
「少し痛かったからお仕置きだ」
乱暴に下肢を剥かれて犯された。ちぎれ途切れる悲鳴さえ藤堂は留意しない。卜部が爪を立てる。硬い壁に弾かれて割れたり剥けたりする。その痛みさえ遠いほどの苛烈な痛みが下肢を貫く。卜部はあられもなく泣いて、啼いて、哭いて。傅き額ずいて赦しと解放を乞うた。
「こうせつ」
笑った。藤堂の声は陰りも窓いもなく無垢に笑んだ。傾ぐ音がする。善悪や美醜や外聞や卜部の外郭が剥がされて捨てられていく。体中が収斂する。その中心には藤堂が無造作に居座った。抱きしめるのも払いのけるのも他意がない。悪意さえなかった。がり、と頚椎の辺りに痛みが走る。べろりと密着するように這う舌の感触と灼けつく痛みがじわりじわりと広がっていく。背中へ垂れる重い感触で出血していることを知る。噛み付かれた。
肘で体を支える。激しい呼吸はいくら喘いでも気休めにもならない。息を合わせろ。藤堂の歯は容赦なく首筋さえかじった。
「あ、ぅ」
嘲笑われた。涙や洟や涎でめちゃめちゃの顔を藤堂の指が擦るように拭う。
「みつけた」
楽しげな声は視線さえ揺らがず。卜部の脳裏で瞬く星はすでに燐を放って激しく燃える。頭痛がする。吐き気もする。腹の奥を突き上げられて吐き出されてその奔流のはけ口がない。口の中はむやみに唾液ばかりが溢れて、ときおり乱暴にされて血の味が交じる。
「やっとみつけた。お前は、私の」
卜部の意識がそこで灼き切れた。体裁も外聞も構わなかった。
藤堂は力の抜けた体を横たえる。舌が喉を塞がないように気をつける。理不尽な行為の中でそれでも震える抜き身に藤堂は笑いかけて握りこんだ。
《了》